ART DOCUMENTARY PROGRAM
スカパー! Ch.529にて放送中
2024.02.17(土)
08:00-08:30 放送
(スカパー! 529ch)
荒凉と心象は映し出されて、
──でもそれが必要だった、
松尾真由美の詩は難解であるとされる、ひとことでいえば、隠喩を駆使した愛という名の関係性の精妙な表出、
──とかつて私は書いた、だが、何という薄っぺらな理解だったことか、何もつかまえていない、
この番組の映像がそのことを教えてくれた、映像は詩人に寄り添って、難解さを解きほぐしてゆく、たとえば詩人が語る車内から、窓外の風景が映し出される、美しいが、荒凉としてもいる初冬の北海道の風景、枯れ草や葉を落とした木たち、
──松尾の詩がほんとうはそうした大地との対話から生まれていたことを、映像はゆっくりと浮かび上がらせてゆく、
「(大地からの)寒い言葉をつい詩に書いてしまう」
──北方系の詩人松尾は思わずつぶやく、映像は逆に、そうした松尾の詩の言葉をひとつひとつ元の風景に戻してゆくのだ、そう、ジグソーパズルのピースをはめるみたいに、解釈ではない、もっと何か、寄り添う作業だ、あるいは、言葉がその本来の場所、大地へと戻ってゆくその回帰の描線だ、映像が捉えようとしているのは、
「巣の夜を聴く」、
──あるいはピアノを弾く松尾が凛としている、詩作とは、ピアノの音がそのまま言葉の粒立ちになり、響きとして流れてゆくことだ、それはたぶん冷たい、でも心地よいのだと彼女はいう、写真とのコラボレーションにも同じ空気が流れ込んでいる、静謐で、硬質で、どこか不気味な、そして「毒」のある空気、
左川ちかが呼び出されるのも、同じ北方系の縁からだ、その「海の捨子」を朗読するあたりから、いつの間にか松尾は海に臨んでいる、大楽毛海岸? オタノシケ? 映像がそれを捉える、
──というか、海を、詩人の口辺や耳のあたりに配置する、大地との対話よりさらに深く秘匿された海との対話、
いやちがう、対話ではない、何だろう、海との? 私には言い当てられない、松尾もしばし黙ってしまう、母の自殺を語ったからでもあるが、映像だけが海をいつまでも配置する、
──ややあって、ようやく松尾から、「冷たい豊饒さ」と言葉が漏れる、
母の死と引き換えに得たもの、そして左川ちかから松尾真由美へと引き継がれたもの、
──海の真実、「冷たい豊饒さ」の言語化、
荒凉と心象は映し出されて、
──でもそれが必要だった、紛れもない詩人松尾真由美の物語がそこから紡ぎ出されるためには……
枯れを来て双掌に掬う海の紫紺 牧野伯翠果*
あの
青い海
とおくちかく
ゆるやかに下っていけば
記憶のしどけない砂粒の散らばりを
遊んでいる幼児の冬があらわになって
紫紺という色の深みに気がつかない手のひらのつめたさの
閉ざされた貝は黙劇のようにあやふやに転がりつつ
流木の乾きとともに
徘徊の域にあり
忘れたことと
忘れたいことの
波立ちの際のあぶく
底の濃度をかきまわす
潮が満ち
波音の豊饒に
飲まれていく骨たちの花火があがる
触れ合ったこともあって 尋ね合ったこともあって 低まりたくなくて
風化の声 空の片影 反映と反射の火 水脈に消され
ひらひらら 枯葉が飛んで
ひらひらひらら おそらくは間欠的に思いだす
擬態のような懐かしさで
遺失物をつかんでいて
宝の密度として
内臓の沼のひかり
ひらひらら
すでに
喰われ尽くされている
いや何度でも喰われていく
その身体とこの身体
互いをむさぼり
なお待ち焦がれ
笑い合ったこともあって 泣き合ったこともあって 温もりが裏がえり
冷ややかな空気の棘 指先の凍え 泉はこおって
きらきらら 寒気が輝き
きらきらきらら 零下が沁みる巣も愛おしく
枯草と
枯れ枝の
厳かな浸透圧
白い息に巻かれていき
地平の果てなさに湿度がからまり
航路のない航路
すぐに迎える夕日
きらきらら
橋が
どこかにかかっている
*牧野伯翠果(祖父)
EDGE 1 #42 / 2024.02.17