ART DOCUMENTARY PROGRAM
スカパー! Ch.529にて放送中
2022.12.11(日)
11:30-12:00 放送
(BS日テレ)
高台の墓地からは入り江が見える。墓前を掃き清める濃紺のワンピース姿のひと、マーサ・ナカムラ。白木の桶を手にしたそのひとの背後には、気仙沼の薄い夏空、海のにおい。彼女は、亡き祖母と、目の前で撮影する者のどちらにも、なんの隔たりもなく話しかける。
合格できれば人の世のためにつくします。できなければ自分のために生きます。大学入試のさいに不思議な願掛けをした。高校生の素朴な神さまへのお願い。ただこれは自らに作用し自分自身さえ変えてしまう取り引きだ。映像はそこにいない存在と親しい詩人を素晴らしくつかまえる。
埼玉県松伏町で暮らす彼女にとって気仙沼は異界であった。豊かな口承の民話を世間話のように話す祖母がいた。異界とはなにか、本作はその問いかけをわたしたちそれぞれに置いていく。異界の入り口は場所であるかもしれないし、物語や、あるいは文字という記号そのものかもしれない。お伊勢浜海岸の波打ち際にかぶさるマーサの詩句が、漂流物のつもる浜辺を裏返していく。
朗読をしても亡くなったひとの追悼にはけっしてならない。震災の傷がある浜を前にして彼女の発する言葉のたしかさ。言葉につまる唇のたしかさ。日本列島をまるごと内側に抱えたマーサ・ナカムラという詩人を通して、わたしたちは共同体の深層にある根や土の物語を思い出す。そしてそれを喪失していたことを思い出す。抱えるその列島のはるかな大きさのせいで、どれほど彼女が現代社会から遠く立っていても、この詩人はいつのまにか目の前にいる。
雨模様のついたガラス一枚を隔て、あたりまえのものが形をかえる。記録ははじまり、マーサの電車はトンネルに侵入する。やわらかなマリンバの残響におもての光は遠ざかっていく。
EDGE 1 #38 / 2022.12.11