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詩人

田中庸介

No.118 詩人 田中庸介 わたしの詩はそこから始まった

Yosuke Tanaka

2026.04.18(土)
08:00-08:30 放送
(スカパー! 529ch)

詩人・田中庸介は新作「書庫、1987」の執筆にとりかかる。
パソコンとプリンターの前を、何度も行き来する。詩人が詩を生み出す瞬間というものは、非常に劇的なときのようにも思えるが、プリンターが詩を刷りだす音は、彼の日常の足音と重なるほど素朴に感じられた。
田中庸介は東京大学で細胞生物学の研究チームを主宰しながら、詩誌『妃 kisaki』の主宰も大学時代から三十年にわたり続けている。『現代詩手帖』への投稿に取り組んでいたとき、詩を書くのが楽しくてたまらず、年間で1,000作品書き上げることもあったが、「飽和状態」に達したと実感したときから、詩がまったく書けなくなる。当時の彼にとって「詩が書けなくなること」は、「生きていられなくなること」と地続きだった。うつ状態に苦しんだ時期、友人から誘われて登山を始めた。そうして、ひたむきに山道を歩き続けた。

詩は現実を抽象化する。一方で詩を書き続けていくには、メタ(抽象)をベタ(現実)に還すことが重要なのだと彼は語る。抽象という行為によって詩は現実から遠ざかるものの、あくまで抽象の高みにある詩と現実は地続きで、往来可能なものなのだ。非日常の高みにある山の頂上にあっても、家につながる道が必ず存在するように。田中庸介という詩人は、抽象と現実、科学と芸術の間を宿命的に歩き続ける。
高校で詩の実作教室を開く。彼が教えるのは単なる詩の書き方ではなく、もっと生の根源にある、表現という行為についてだ。日常からかけ離れた詩の言葉を前に、学生たちは困惑の表情を浮かべているが、田中庸介は問答無用で抽象の山道へと彼らを引き連れていく。抽象の山登りから、再び日常へと戻ってきた学生たちの顔は生き生きと輝いている。それは「詩が書けるようになった」喜びよりも、自分に備わっていた表現力に、驚き喜んでいるようだった。

大学時代の彼の詩には、ありふれた日常の景色を言葉によって少しずつ壊すことで、日常の輪郭線を注意深くなぞらせていくような、実験的な言葉が並んでいた。スランプを経て、登山によってうつ状態から回復した後の彼の詩を見てみると、直感的にわかりやすい言葉がつづられている。よく噛み砕かなければ飲み込めない詩ではなく、まるで疲れた人間を回復させる重湯や粥のように、口にした瞬間にすっと体にしみこんでいく詩である。

乾いた杉並の高台に帰る前
井の頭線を途中下車し
仄暗い地下へと階段を降りる

ここでのわたしの獲物は
まず
思潮社版《現代詩文庫》全巻
①田村隆一、②谷川雁、③岩田宏、④山本太郎、
⑤清岡卓行、⑥黒田三郎、⑦黒田喜夫、
⑧吉本隆明、⑨鮎川信夫、⑩飯島耕一

赤と黒、
でっかい漢字と小さなひらがな、
活版の活字が表紙に踊る
最初期の現代詩文庫

かつての小田久郎による
《戦後詩人》のラインナップ、その設計。
じめじめした夕方の地下書庫、
陰鬱な貸出カウンター、
大陸の戦争体験。

どうやら時代もバブル期となり
渋谷の空はきらめいて見えていたが
世田谷の書庫は
湿気にあふれ
その圧倒的な戦後——。

わたしの詩はそこから始まった
「書庫、1987」より引用

本作中に生み出される新作詩「書庫、1987」は、彼が詩の道を歩き始めた時代を彷彿とさせる。この詩を朗読する田中庸介は、過去を振り返るのではなく、1987という極地——今の「わたし」から最も遠い、1987年の「わたし」に向かって歩き出す。そして極地へとたどり着いた途端、再び現在の「わたし」の日常へと戻る。その道に断絶はなく、どこまでも地続きだ。芸術と科学、詩と現実、山と日常、過去と現在。
生の対極にあるのは死で、人がなんらかの極地に挑もうとする時には、常に死の影がつきまとう。しかし極地への挑戦における成功とは、死に接近することではなく、無事に日常へと帰ることにちがいない。田中庸介は学生、詩の同人、そして読者の前を歩きながら、「行きて帰る」姿勢を表現し続けている。人を引きつける彼の後を夢中で追いかけ続けるうちに、彼を取り巻く人間の生きる力も鍛えられていく。
「日常」というテーマを抱き続ける詩人・田中庸介の生活を映し出すこの作品は、まるで映像詩のように、わたしたちが抱える日常という透明な輪郭をも浮かび上がらせる。

text マーサ・ナカムラ
田中庸介

田中庸介 (詩人・細胞生物学者)
1969年 東京生まれ
高校生の時から 雑誌に投稿を始め 1989年に「ユリイカの新人」としてデビュー 
2021年に刊行した『ぴんくの砂袋』で第37回詩歌文学館賞を受賞
細胞生物学者として 東京大学医学部で研究グループを主宰するほか、東京大学芸術創造連携研究機構(ACUT)の副機構長を務めている

PLANNER/SUPERVISOR
城戸朱理
NARRATION
佐藤ケイ
CAMERA
佐藤洋祐
CAMERA ASSISTANT
伊藤草良
AUDIO
阿斯汗
EDITOR
大泉渉
EED
西村康弘
AUDIO MIXER
富永憲一
SOUND EFFECT
玉井実
IN COOPERATION WITH
筑波大学附属駒場中・高等学校/NIDO/伊佐ホームズ
PRODUCER
設楽実/平田潤子
DIRECTOR
田原純

EDGE 1 #48 / 2026.04.18

2026.04.18(土) 08:00-08:30 放送 (スカパー! 529ch)