ART DOCUMENTARY PROGRAM
スカパー! Ch.529にて放送中
水のすがたに惹かれつづけていると、塩見允枝子は言う。流れる、変化する、といった意味のラテン語「フルクサス」という言葉は、パフォーマンス、室内楽、視覚詩等、幾多の感覚を横断する塩見の表現につよくあてはまる。流動してゆくのだ。
一九六四年ニューヨークへ渡った彼女は、前衛芸術グループ「フルクサス」の活動に参加した。六〇年代当時、「フルクサス」には、主催者ジョージ・マチューナスが掲げた主張に共鳴したさまざまな作家、オノ・ヨーコやナム・ジュン・パイク、靉嘔らが、世界中からつどい、日常と芸術の境をうちやぶり、既成の表現には収まらない芸術実践を提示しつづけていた。
帰国後も塩見は、日常と芸術の垣根、ジャンルにとらわれない表現を試行しつづける。インターメディアと呼ばれる表現形態で、音は光に、光は言葉、言葉は動きへ、それぞれの発現が、次々に作用しあう連環は、まさに、流動的だ。水のように。『ウォーター・ミュージック』『音楽の胎児』等の作品名からも伝わるが、固着した認識、概念をときほぐし、彼女が希求する中間的、溶解状態へ鑑賞者を導いてゆくのだ。
同時に、塩見は「フルクサス」という言葉がもつ「下剤をかける」という意味を、前衛芸術が背負う役割のひとつとして、はっきりと意識している。それは、権威主義への抵抗のありかたでもある。前衛とは、対峙する体制、制度へのプロテストの先端だと塩見は言う。だからこそ、一九六〇年代、フルクサスは前衛であったが、現在には現在の、別の前衛があるべきだ、と。表現行為や芸術とは、自分を表現することだとか、無から有を創造することだおもわれがちだが、そうではなく、かつてない世界の見え方、ふれかたに気づくこと、閃くこと、そのプロセスが大事だと告げる彼女は、「フルクサス」の意志が、前衛であることを超えて、なお自由に、流動的に生きる、現在のすがたなのだ。
EDGE 2 #21 / 2006.01.14