ART DOCUMENTARY PROGRAM
スカパー! Ch.529にて放送中
軽井沢の奥地。孤島のように浮かぶ森の水辺に詩人がいる。背後から草葉が、詩人のからだを吸い込みそうなほど獰猛に迫り、「マユミ、アズサ、サツキ、カエデ」―植物の名を呼ぶ声と表情は、これらの種子を持つ者のように見える。人は些細な所作をとるだけで、何かの種をはらり落とし、生きている。不意にそんな思いにとらわれる。
どこまでも続く森のように、東京でのどのシーンにも、緑の切れ端が映りこむ。自宅のソファに座り、深夜アニメを見つめる詩人は、撮影スタッフの存在も忘れ、画面に見入ってしまう。自分を吸い込む、近くて遠い世界。そこもまた「森」なのかもしれない。
子どもの頃から、アニメや漫画が好きだった。自分の日常よりもリアルに感じられた。だからなのか、自分のことは書かずに、さまざまな女の姿を書いてきた。現実の世界が差し向ける、型どおりのイメージから逸脱する女たちの姿を。
そんななか、2011年、東日本大震災が起こった。福井県小浜市の原発銀座と呼ばれる場所で生まれ育った詩人は、もしあの震災が日本海側で起きていたら、と想像せずにはいられなかった。報道カメラに映った「自分」だったかもしれない人々が、圧倒的な現実として「自分」に迫った。
「自分ことをちゃんと書くことから、もう一回始めないとだめなんじゃないか」。―そんな思いに突き動かされ、大好きなアニメの世界を支えにして、初めて自分のことを書いた詩集『Tiger is here.』で、2016年、高見順賞を受賞する。「(たすけてタイガー!)」という聞こえない声を聞きつけ、力強く現れる虚構のはずのヒーローが、現実の詩人を支えた。詩人は、タイガーは、本当はどこにいるのだろうか。その答えを秘め、川口晴美の「森」は今も息づく。
Director’s comment
子供の頃と違って普段マンガも読まないし、アニメもあまり見ない。そんな僕に、詩人である川口晴美さんのドキュメンタリーを作る機会が訪れた。詩の最高峰の賞である高見順賞を受賞した最新詩集は、現代詩では異例の、“深夜アニメの世界”が土台になっていると言う。
5月の新緑の中、川口さんを撮影した。川口さんは女友達と生きていた。「水のような人なのだ」と、女友達は口々に言った。
今まで全く知らなかった世界が、僕の目の前に広がっていった。言葉や人間を新しく読み解こうと心を砕く人、言葉というものが無いとこの世に生きてはいけない人…。そんな川口さんの姿を、映像と音で直に感じてほしいと思う。
EDGE 1 #30 / 2018.08.11