ART DOCUMENTARY PROGRAM
スカパー! Ch.529にて放送中
2021.01.23(土) 21:00-21:30 放送
(スカパー! Ch.529)
人は作品を見るときにこそ作家を見て、作家を見るときにこそ作品を見てしまう。作品だけ、作家だけを見ることはできず、その前提からテキストを読む立場がそれぞれに分岐していく。そうした表裏一体の怖さをもっとも知っている作家が文月悠光かもしれない。「女子高生詩人」というアイコン化された作家性を打ち消すためにはアイコンの否定だけではまったく足りず、いまだ抗いつづける。アイコンの否定によって作家は救われても、作品は救われないからだ。
文月は作品を通して他者に出会い、他者に寄り添うことについて語る。詩をあいだに置きながら。この詩人が言葉に救われたからこそ、過去の「私」を救いにいくような言葉に救われる読者がいる。言葉の共振において「過去の私」が「未来の他者」と繋がり、その時間と主体のズレによってのみ並走できる余地が詩の言葉にはある。
そんな私が入った器は
乾いた心に反してまだ幼く、瑞々しい。
周囲は、その瑞々しさを褒め称えるばかりで
乾ききった中身になど全く気づかなかった。
だが、乾いた私は、水に出会ったのだ。
水は読むことができる。
表紙をめくった指を伝い、押し寄せる水。
白いページと黒い活字だけが、私の色になった。
色盲になったようだった。
水は書くものだ。
(「渇き」より)
「乾ききった中身」に色をつける水。その水源のひとつでありつづけるために今後も文月の活動は多岐にわたるだろう。書かれたものに対し、書き手はそれに従属するしかないし、文月はそうした作品の要請を聞く耳が人よりいいのかもしれない。作品がその宿命をあらかじめ負っているとき、書き手はその要請に身体を沿わせていくことしかできない。
EDGE 1 #35 / 2021.01.23