ART DOCUMENTARY PROGRAM
スカパー! Ch.529にて放送中
美術におけるイヴェントとは、いかなるものなのか。多くの人にとって、ライヴときいたとき、音楽やダンス、演劇、朗読ならば、そこでどのようなパフォーマンスがおこなわれるのか見当はつくだろうが、美術のパフォーマンス、イヴェントとなると、それがいかなる体験になるのかを想像することは難しいかもしれない。しかし、一九六〇年代、発生当初からイヴェントを重視し、既成の表現活動にとらわれず、芸術のアクションの可能性をひらいてきた運動がある。それが「フルクサス」だ。本作は、「フルクサス」の活動に深くコミットした靉嘔、塩見允枝子に迫ったEdge二篇を織りまぜながら、「福井フルクサス」のイヴェントのようすをうつし出してゆく。
真のアヴァンギャルドとはなにかを探求すべくニューヨークに渡った靉嘔は「フルクサス」の活動に参加し、塩見允枝子もまた、視覚、聴覚といったひとつのかたちにとらわれない流動的な感覚をよび醒ます作品を発表するなかで、「フルクサス」に出逢う。日常と芸術の閾をうちやぶり、幾つものジャンルを横断する表現に共鳴したのだ。当時から、観衆をまきこみ展開する「フルクサス」にとり路上は、ひとつの劇場だった。ハプニングと異なり、「フルクサス」のイヴェントは、作者がコンセプトと手法を記した「スコア」をもとに上演される。「福井フルクサス」では、オリジナルメンバーや、当時のイヴェントを直接には見たことがないという「フルクサス」第二世代の作家がまねかれ、その場にいあわせた観客と共に、残された幾つかの「スコア」を上演してゆく。
靉嘔と塩見に共通する作品づくりへの意志は、既成の価値や認識にしばられない視座の発見の重要性だ。作品は完結の状態ではなく入口なのだ、そう靉嘔は語った。そして、彼女彼らが実践しつづけたライヴ、イヴェントもまた、体験をとおして、参加したそれぞれの人を新たな視座へ導くための入口なのだ。
LIVE! EDGE #3 / 2006.11.11