ART DOCUMENTARY PROGRAM
スカパー! Ch.529にて放送中
札幌に転居し、北国での暮らしをはじめた三角みづ紀さん。
そこには日常をいつくしみ、詩がおとずれるのを静かに待つ詩人の姿があった。
流氷の詩を書いてみたい、という三角さんとともに、カメラはさらに北の網走へ向かう。
はたしてどのような詩が生まれるのだろうか―
「三角さんへの手紙」
ご無沙汰しています。お元気でいらっしゃいますでしょうか。
あなたが、映っている番組をみて、何かを書いて欲しいとの依頼だったのですが、じつは今日まで、書くのがとても難しかっったのです。
語ってみたいことがないからではありません。むしろ、この数ヶ月、どこかでずっとあなたの言葉と暮らしていたような気が来ます。詩を読むあなたの姿を見て、ひとが言葉へと変貌していくさまをありありと目撃し、それを表現するにふさわしい文字を探しあぐねていたのです。
今日も書けないとおもい、お詫びのご連絡をしたためようとしていたとき、突然、どこからか無音の声がして、感想など書いてはならない、おまえは、ただ見たものを記せばよい。そう告げられたような気がして、ようやく紙にむかっています。
詩を書く人は少なくない。でも、詩人と呼びたくなる人は稀です。私はあなたに、詩人とは、職業名である前に、人間の存在のありようであることを学んだように思います。
ひとが、言葉の器になることができれば、詩は自ずとそこに生まれる。だが、多くの場合、私たちは言葉を自分のおもいの器にしてしまう。詩人とは言葉をうまく用いる人であるより、深く言葉に信頼された人であることが、あなたの姿を見ているとよく分かります。
あなたは、ふと旅をし、詩をたずさえて還ってくる。あなたは、万葉の歌人のように詩を拾いに旅をする。旅だとおもったら、暮らす場所を変えたこともあった。
「言葉」という文字が、如実に示しているように言葉は、薬草ととてもよく似ています。それをじっくり煎じて飲むと、見えないところにある傷も癒えてくる。あなたはさまざまな詩で、ひとはからだだけではく、こころからも「血」を流す生きものであることを歌う。そして、その「血」を慰めの「水」に変じることができるのは詩であることを、ずっと語り続けている。
三角さん、ようやく分かりました。私は素朴にうれしかったのです。詩人と称するひとのなかに本当の意味で言葉に対し、敬虔な気持ちをもって生きている人を目の当たりにできて。
こうして書いてみると、これだけのことを言うのにずいぶんと時間を要したようにも思いますが、生きるということは、そんなことなのかもしれません。あなたも、たった一つの言葉に出会うのにも長い年月を費やしたのですから。
また、お目にかかれますのを楽しみにしております。
ご返信遅くなって本当に申し訳ありませんでした。
くれぐれも御身大切になさってください。
EDGE 1 #29 / 2018.04.21