ART DOCUMENTARY PROGRAM
スカパー! Ch.529にて放送中
一九七二年、最初の詩作品書『地名は地面へ帰れ』と研究書『源氏物語の始原と現在』を刊行して以来、現代詩人、古典研究者であることが、同時並行としてつづいていると藤井貞和は言い、言葉にたいするふたつの態度がフォーカスされる。古典の言葉を慎重にあつかい、現代詩においては自由をもとめること、藤井は、その両立の補完性を述べる。だが同時に、彼の実践からわれわれは、ふたつの極に引き裂かれるさまを突きつけられてもきた。番組放送と同年、二〇〇二年に刊行された詩論『自由詩学』には、「私の自由詩は、伝統詩への抵抗という要素がある」と記されている。幼年時代を過ごした奈良で五七五七七の音律にしたしみ、今まで隠していた秘密だと前置きしたうえで彼は、短歌形式の詩をまとめたガリ版の冊子をひらく。東京に出て、現代詩を書くということがはじまった、そう述懐する藤井は、互いへの「抵抗」をかかえつづけているのだ。
死んだ女の子からの抗議です
詩杖(ことばのつえ) 詩杖(ことばのつえ)
本篇中、藤井貞和が朗読する詩篇「薌(ひびき)」は壮絶に胸をうつ。詩中の語り手、古墳にねむる十一歳の少女は、死後「あんたの好きな子に私はなれたのかしら」と想いを伝える。その最中、少女は、新たな漢字を拵える。藤井は、「塚の中の世界」では、教育漢字、常用漢字に縛られる必要などないと言う。このモチーフは、一貫している。藤井にとり、地中に接続された「自由」は、未来の母胎からの語りかけであり、重要である以上に現代詩の使命なのだ。
「アメリカ軍のアフガニスタンへの空爆の直後、反戦を訴え世界中を巡ったチェーンメールを受けとった藤井は、回文というかたちで詩作を試みた」とナレーションが挿され、詩篇「チェーン」が朗読される。本番組でも「崩れてしまいそうな建築が現代詩にはふさわしい」との見地が示されるが、かつて彼は、たとえ現代詩の破壊に繋がろうとも、状勢への「抵抗」を表明する「ボロクソ、エイクソ」の「クソ詩」を書かねばならないと訴え、主張した。藤井においてこの立脚地は、たんなる情動ではない。だからこそ、その賛否を踏まえ、このドキュメンタリーに彼の穏やかでありながらも決死のすがたを目撃するとき、詩を書き、詩を読む誰しもに、あるべき詩形式のいかんを再び問う契機となるはずだ。
EDGE 1 #8 / 2002.04.13