ART DOCUMENTARY PROGRAM
スカパー! Ch.529にて放送中
のちにゼロ年代を代表する若手俳人となる髙柳克弘は、ドストエフスキーが好きでロシア文学科に進学。そしてある日、演劇部の立て看板に書かれていた俳句を目にして衝撃を受ける。
〈目つむりてゐても吾を統ぶ五月の鷹〉 寺山修司
自分自身を超えていくためのツールとして俳句定型をとらえるロマンティスト、髙柳の胸には、以後この句が棲みつくことになった。
しかし髙柳は寺山のように同人誌を興すことはなく、伝統的な大結社「鷹」に所属することで俳人としてのスタートを切る。すぐに頭角をあらわして編集長となった。芸術としての俳句と芸道としての俳句、どちらに特化しても俳句は痩せると見る髙柳は、定型によって日常を詩的青春詠にしていく作業と、初心者たちへの指導を並行させていく。
そうした髙柳を取材する平田ディレクターまでが、句会に巻き込まれ、講評や添削を受ける仕儀になるのはなかば当然のなりゆきだ。俳句を作り、基本的な添削指導を受ける過程でディレクター自身も次第に世界の見え方が変わっていく。通常の俳句番組の吟行風景からはうかがい知ることのできない内面的変化がたどれるのはドキュメンタリーならでは。そこからかえって髙柳の制作時の心の動きまでが伝わる。思いを伝えようとせず、説明を切り捨てたほうがかえって伝わるという俳句的逆説が、映像にまで浸透していく。
親に義絶され、帰省できずにいた浜松に帰った髙柳を捉えた海辺の映像はドラマのラストシーンのようで、これも人生を虚構化しつつ走り去った寺山の影響の根深さを、説明的にではなく具現化しているようだ。
最後の若手俳人たちのとの吟行シーンには神野紗希の顔も見える。番組制作時、二人はまだ結婚していない。
EDGE 2 #33 / 2011.01.29