ART DOCUMENTARY PROGRAM
スカパー! Ch.529にて放送中
三角みづ紀にとっての「リアル」が彼女自身、詩を書くように被写体となり、うつし出されるドキュメンタリーだ。「この番組をきっかけにかわれたら」と三角が告げるこの番組が撮影された時期は、第一詩集『オウバアキル』から詩人として次の段階へむかおうとする過渡期にあたる。その渦中、三角が体調を壊したことにより、撮影は中断を余儀なくされ、後日、第二詩集『カナシヤル』にあまれる三〇篇の詩の原稿が届けられる。三角みづ紀の「存在と不在」に、彼女の「リアル」が輪郭を帯びる。前にすすむ意志と共に。
もう一回、道を辿り直すことで成長したい、そう願いをこめて彼女は、『オウバアキル』と切り離せない地、八王子へむかう。「鹿児島から上京し一年目突如、全身性ユリトマト―デス、膠原病に襲われ、両親の暮らす奄美での療養を経て復学のため八王子に移り住んだ」と、彼女の経緯がしらされ、三角は、そこでの日々が、病だけでなく人間関係においてさえきついものだったと語る。その現実のなかでこそ詩を書いてきたのだと。
わたしを基準とするならば
皆壊れてしまっているのだ
(「私達はきっと幸福なのだろう」『オウバアキル』より)
初期、三角の詩語には、傷をなぞるに似た筆跡の正確さが維持されている。その正確さが詩語にもたらす鋭さは、『オウバアキル』という題が示すように、敵意が籠められていた。「みえないところをきずつける/流れたものをうけとめる」(「ソナタ」)、諸刃のように。番組中、三角は過去の詩に対し幾度か「リアル」だと口にし、それらが書かれた当時の心境と生活をふりかえる。彼女は、のり越えなければならない現実と真向かい、詩をとぎ澄ました。いたみを伴なおうとも直視し、瞳をそらさなかった。
彼女のまなざしは、その先を見つめている。撮影中、新たな生活と第二詩集がかたちづくられるなかで、彼女の詩は第一詩集とは別の境地へすすんでゆく。「彼女はいつもメールでもうつようにして、携帯でも詩をつくる」とナレーションがはいり、ガラケーをひらき、薄日を浴びながらうつむきがちに、三角は、文字をうちこんでゆく。ディスプレイに表示される生まれたばかりの詩語には確かに、新たなモチーフが宿っていたのだった。
自身を「全身表現者」だと告げる三角みづ紀は、日常のなかでいだくいたみやよろこび、ためらいをかくそうとはしない。撮影が中断された後、彼女が手術へとむかうラストシーンにいたるまで、三角が彼女自身の「リアル」と対峙し、その現在をのり越える姿がカメラにとらえられている。それが、彼女の詩を書く姿勢にかさなるのだ。
EDGE 1 #19 / 2006.08.26