ART DOCUMENTARY PROGRAM
スカパー! Ch.529にて放送中
底冷えする冬の京都。雪が舞う、氷点下の鴨川べりで、濡れそぼちながら、支流の水を汲んでは、本流に流している詩人がいる。
そこには、言葉は介在していない。
詩よりも詩的なものを求めて、パフォーマンスを繰り広げるカニエ・ナハ。「自分が詩的な風景の一部になりたい」と語る詩人は、言葉による詩のみならず、同世代の詩人の詩集を自らデザインして手作りし、パフォーマンスにも打ち込む。そこには、全存在を賭けて、詩を生きようとする姿がある。
東京、深川の自宅には、画集から雑誌まで、さまざまなジャンルの資料が溢れ、ダイニングのスペースまで占領している。たとえば、猫。あるいは落語。まったく関係がないものが出会うとき、そこに新しい何かが立ち上がる。そこに詩があるのではないか。
自由詩には定型がない。しかし、書き続けるにつれて、自分なりの形が生まれ、定型化していってしまう。それを破壊しないかぎり、前には進めない。その意味では、カニエ・ナハとは、変化し続ける者に、与えられた名前なのかも知れない。
詩集『用意された食卓』で、2016年の中原中也賞を受賞し、今、もっとも注目を集める詩人は、「不安な時代に、今しか切れないシャッターを切りたかった」と語る。
さらには、「世界は悲惨になっていって滅びるんだっていう。そのうち詩を書くことさえ禁止されるかも知れないし。まだ書けるうちに書いておこう。そういうのがあるかも知れませんね」と。
詩を書き、詩を演じ、詩の風景の一部となり、詩の風景を作り出すことで、文明の衰弱に抗う詩人の姿が、ここにある。
降りて院道を歩いているが、
兆候はついに一度も訪れない、
なぜ私が歩いていたのか聞いていない
先に進んで月の跡から
発掘されて自らの音像を描いて
白に達して山門
濡れ縁に座っているのを見る御嶽
庭に出て、間にとどまりうずくまるとき、
連れて出てくるまで待って、
石段の下に送った今日は
素敵な一日になるだろう
白い光が鋭い冬を和らげて
芭蕉を抜粋し
永遠に風を覚えていた
寂しさを生誕させ荒廃を復活させ
動脈も降雪も遠く離れて藁葺屋根
後ろの隙間が切り取られ
文に刻まれ
丘の後ろの私も死んだ
(お墓らは深雪を食べて生きている)
生から遠く離れている
自分らがさまよっている
物語の再び来る、
(楊梅楊梅陰と陽)
それは、それは、それは、それは、
EDGE 1 #25 / 2017.03.11