ART DOCUMENTARY PROGRAM
スカパー! Ch.529にて放送中
天沢退二郎が、ひたすらにママチャリをこいでいる。彼が暮らす千葉chibaをフランス語読みしたシバを死場、詩場と読みかえ、彼はペダルを踏む。自転車がはしる。終わりも目的も拒否する、エンドレスなロードムーヴィーのように。
本作冒頭、天沢は、詩人なんて正体を見せたくないと語る。なかば、自分探しなどくだらない、そんなものはないのだと静かに語気をつよめ、ラストには「天沢さんは詩人ですか?」という問いに対し、「詩人はどこにいる?/詩人はね、ほら、/詩の言葉の、ちょうど/すぐ斜めうしろのところで/ふっふっふっふっ/と笑っているよ」「あのわらいごえだけが《詩人》さ」と一九七六年の詩集『les invisibles 目に見えぬものたち』の一節を読む。一貫しているのだった。
公園の遊具にたわむれ、ママチャリをこぎ、半廃墟ともいえる「通信所跡」で詩を朗読し、また自転車にまたがり、舗装の粗い砂利道、「砲台跡」、「壕の跡」、住宅地を転々と移ろう。そして、移動は、時間を越え、渡る。フランス現代思想にリンクした批評、詩作により「六〇年代詩人」ラディカリズムの旗手と称された若き日の天沢を題材に、鈴木志郎康が撮影したフィルムが路上の無造作なコンクリート壁に映写される。夜風にうたれながら、彼はかつての自身を見つめる。後年、天沢は六〇年代の自身の詩作を反省しつつも、「モダンジャズの大音量の吹き荒れる店内で、二時間、三時間と居続けたあげくに、ついに無限の自由を獲得した右肘を利かせながら、ペン尖から奔る言葉を書きとめて行くという「行為」のことを、今更後悔できるわけがない。」(「現代詩手帖 二〇一〇年十一月号」)と記している。彼は決してこの「行為」の「自由」を忘れてはいない。
その裏側の廃墟に沿って
ずーっと奥へ行くとどうなるか
知ってるか?
足跡ひとつない乾いた土のみち
ダダダーッとオートバイで駆け入ると
両側の草むらが迫ってきて
気がつくと何もないんだよ
ほんとに何も なーんにもないんだよ!
(「帰りなき者たち22」『帰りなき者たち』より)
天沢は朗読する。「何もない」へと「駆け入る」「オートバイ」は、ママチャリだ。彼のたたずまい、声には、どこかオプティミスティックな気配が漂う。だが、本気なのだ。自転車ではしりつづけ、ついに彼は、「自分はどこに住んでいるのかわからなくなる」と言う。千葉、詩場、死場は、単なる言葉あそびではない。切迫する空無を巡り、刺しちがえ、引き起こる錯乱こそが、天沢のラディカルな「行為」だから。天沢は、ママチャリをこぎつづけている。
EDGE 1 #18 / 2005.07.09